宮﨑駿監督 新作映画「宣伝なし」から考える 広報・宣伝の新たなアティテュード (※一部ネタばれあり)

アオサギ

7月14日に公開された宮﨑駿監督 新作映画「君たちはどう生きるか」。
宮﨑監督にとって10年ぶりの新作だが、今回プロデューサー鈴木敏夫氏の「まっさらな状態で映画を観て欲しい」という考えから、映画の内容、出演者などの前情報がほとんど明かされず、映画では常套手段の制作メンバーや出演者によるTVニュースでの前宣伝・パブリシティはもちろん、予告映像をはじめとするCM・動画・新聞などの広告も行われない異例の状況で公開に踏み切ったとのこと。

公開に先立ち6月28日に都内で開催された「金曜ロードショーとジブリ展」の開会セレモニーに出席した際に鈴木氏は、

「いままでいろいろな情報を出しすぎていて、観る方の興味を削いでしまっていたのかもしれないと思ったんです。最初は通り一辺倒の宣伝だけでもしようかなと思っていたのですが、一切宣伝しなかったらどうなるのか興味があった。これだけ情報化された時代に、情報がないことが、エンターテインメントになると思ったんです」

と発言している。

広告代理店、大手新聞などのメディアからすると「広告収入」が入らないわけで大事件だし、関わっているPR会社があるなら「広報予算」も限りなく予算が削られたに違いない。

エンタメビジネスからすれば、果たして「宣伝なしで、ヒット作になりうるのか」、「制作費は回収できるか」という大きな不安があるはず。。。もちろんこれを押し切れる鈴木プロデューサーの辣腕もあるのだが。

さて、当方も映画を一度見てみた上で以下書いているのだか、「この映画は宣伝方法に迷っただろうな」ということは推測される。明らかにこれまでの宮﨑作品より難解で、一言でいうとアートというか芸術作品風で、とても説明のしにくい映画だからだ。

以下は推測になるが、、、

推測1

正面切ってこの映画を予告やパブリシティで説明するとした場合、。、

「これは難しい映画という印象を与えてしまう」
「逆に予告でエンタメ性をあおると、反感・裏切り感を買うかも」
    ↓
「今回は見なくてもいいかな」
という流れになるのがこわかったのでないだろうか。

推測2

「だったらいっそ宣伝なしでやってみたらどうなるだろう」!?#♫
「宮﨑駿 10年ぶりの新作という話題性の初速だけでいけるところまでいってみるかあ」

となかばギャンブルのように「勝負をかけた」のかもしれないとさえ思う。

最後に推測3

これは鈴木氏の手腕か、ジブリや映画会社のスタッフからのアイデアがどうかはわからないが、冒頭に鈴木氏のインタビューを引用させていただいたが、本当に“ともすればば映画宣伝は情報を出しすぎで、ファンの興味をかえって損なってしまっていたかも」と心底考えて今回「宣伝なし」をチャレンジされたようであれば、(当社もPR会社の端くれではあるのだが)個人的にはとても応援賛同をしたい。

たとえば本当に好きなミュージシャンのCD、作家の新作小説でも、聞いてから、読んでから
インタビューを読みたいよと思うことは確かによくあった。まだ聞いてもいない、読んでもいない楽しみにしているCDや小説をネタばらしにならない程度に、作者が「宣伝が必要であろうという業界の慣習や事情のコピペ」から、不必要な解説などをしてしまっている「気持ち悪さ」というものが確かにあったと思うからだ。

もし今回の映画をきっかけに、さらに顧客ユーザーマインドのファンの気持ちを踏まえてマーケティングが稟議され通過したのであれば、それは素敵なことのように思う。パーパス、ナラティブ、ファンベースといった顧客の感情を逆なでしないという決断のもと、本作日が公開されたとしたら、新しい広報宣伝のアティテュードだなと思う。

最近、キャンドルジュン氏の記者会見における記者との一対一対応、山下達郎氏のラジオでのコメント対応など、本義はどこにあるか、そしてその結果がうまくいっているかなどは、当事者ではないとはなりしれないところであるが、いろいろな方々がいろいな考えをもって、広報、宣伝、記者会見、コメントなどに様々な方々が従来以上に真摯に対峙対応していることは、従来にない新しい時代のアティテュードではあるのかなと思う。

広報・PRに関わるものとして、これらの流れをひしひしとかんじつつ、日々の広報業務をコピペですませることなく世の中と精緻に向き合っていかないといけないなと感じる次第である。

アオサギ